株式投資やFXトレードでは目先の値動きに囚われず、視野を大きくして日本経済の大きな動きを把握することが大切。また、過去の金融危機の歴史的背景を学ぶことで、投資の教訓にすることができます。
そこで今回の記事は、現代金融史の出来事をまとめました。それぞれの出来事に関して、より詳しい解説記事のリンクも張っているのでよければ参考にしてください。
日経平均チャートで見る株式相場の金融史イベント
参考:File:Nikkei 225(1970-).svgーWikiMediaCommons
1970年代
ニクソン・ショック|1971年8月
1958年頃からアメリカの貿易収支は悪化し始め、ドルへの信頼が揺らぎ始めました。余剰となったドル資金は金への投機となり、国際金融市場は大混乱に。
米国ニクソン大統領は1971年8月15日、金と自国通貨ドルの交換停止や10%の輸入課徴金の導入を突如宣言。このニクソン声明による市場の混乱を「ニクソン・ショック」といいます。
ニクソン声明の背景には、次の2つがありました。
- アメリカのベトナム戦争介入の泥沼化による国際収支や財政収支の悪化
- アメリカから経済が復調した欧州諸国へ金が流出
この声明直後、欧州諸国はドルのパニック売りを回避するために、為替市場を一時的に閉鎖。その一方、日本は為替市場を開いたままにしたため、東京市場は強烈なドル売りを受け、日経平均は210円50銭まで急落するパニックを引き起こしました。
また、この声明は1994年から続いていた、金とドルを両軸とする通貨制度「ブレトン・ウッズ体制」が崩壊したことも意味しています。
年表
1994年7月 ブレトン・ウッズ体制スタート
1960年12月 ベトナム戦争勃発
1971年8月 ニクソン声明
1971年12月 スミソニアン協定
1973年3月 円が変動相場制へ移行
ニクソン・ショック狂騒劇|日本記者クラブ
ブレトンウッズ体制と崩壊|国際通貨研究所
第一次石油ショック|1973年10月
1973年10月、第4次中東戦争が引き金となり「第一次オイルショック」が勃発。石油関係の製品の物価は軒並み暴騰しました。
またこの間、日銀が段階的に行っていた利上げが企業の投資意欲を削ぎ、翌11月に景気はピークを打ち、日本経済は景気後退とインフレ加速が同時進行するスタグフレーションに陥りました。
スタグフレーション ~1970年代の石油危機の考察~ 竹光 大士
1980年代
累積債務問題|1987年8月
1970年代、産油国の巨額のドル資金が米銀に集まり、開発資金を求めていた中南米やアジアの発展途上国への投資が加熱しました。
しかし、石油価格の急上昇にともなうインフレ加速に対応するためにアメリカが政策金利を引き上げた結果、新興国の輸入額と金利支払額が増額。外貨準備の急減と成長率の低下も加わり、新興国は巨額の対外債務を抱えることになりました。
そして、1987年8月17日、メキシコが債務のリスケジュール(債務返済期限の延長)要請の後、中南米やアジア・東欧などの国々が次々とデフォルト(債務不履行)に陥りました。
年表
1973年 第一次オイルショック
1979年 第二次オイルショック
1981年 ポーランドがデフォルトを表明
1982年 アルゼンチンがデフォルトを表明&メキシコが債務のリスケジュール要請
1983年 ブラジルが対外支払いの全面停止
プラザ合意|1985年9月
1985年9月、先進5カ国(日米英独仏)の財務相・中央銀行総裁が集まり、ドル安に向けて外国為替市場で強調介入を行うことを合意。
こうした米国の政策転換には次の2つの背景がありました。
- ドル高で輸出競争力を失った製造業・農業関連者からの圧力
- 米国会議での保護貿易主義の高まり
プラザ合意後、各国は自国通貨の急激な通貨高による景気悪化に対処する必要が生まれ、日本では日銀が円高不況を避けるため低金利政策を継続。政府も公共事業の拡大など大幅な財政政策を実行しました。
その結果、余剰資金が株式相場に向かい、80年台後半のバブル相場を引き起こすことになりました。
またその過程で、米国で急激なドル安にともなうインフレ懸念が発生。インフレ抑制のために高金利政策を主導した当時のFRB議長 ボルガー氏が急激なドル安に強い警戒感を示すなど、ブラザ合意の副作用を懸念する声が強まりました。
こうしたインフレ加速は同国の長期金利の上昇をもたらし、のちのブラックマンデーへの伏線となっていきます。
年表
1981年 日本が自動車の対米輸出自主規制を開始
1984年 日米円ドル委員会を6回開催
1985年 中曽根・レーガン合意&プラザ合意(3年間のドル下げの契機)
池上彰解説 プラザ合意によるバブル経済の始まり|Nikkei Style
NTT株上場|1987年2月
1987年2月、旧日本電信会社校舎から民営化したNTTが株式を上場。前年に195万株を119万7000円で一般に売り出し、多くの人が株式投資を始めるきっかけを作りました。
ブラックマンデー|1987年10月19日
ブラックマンデーとは、1987年10月19日月曜日に起こった、史上最大規模の世界的な株価大暴落。
1992年10月の株価大暴落を超える下落率で、ダウ平均は前週末比508ドルの暴落となり、下落率は22.6%を記録しました。
ブラックマンデーの直接的な引き金となったのは、相場下落のリスクをヘッジするための一種のプログラム取引である「ポートフォリオ・インシュランス」による大量の売りでした。
また、この背景には、「双子の赤字」構造や加速するドル安といったアメリカ経済の不安視や、米国とドイツの間に金利引き上げに関する意見対立があるとの報道があり、G7の協調体制が崩壊するのではとの市場参加者の懸念がありました。
年表
1987年
2月 日銀が公定歩合を史上最低の2.5%に引き下げ
8月 ボルカーFRB議長の辞任&グリーンスパン新議長就任
9月 アメリカが公定歩合を6.0%に引き上げ
10月 ブラック・マンデー
1990年代
大蔵省の株価テコ入れ策|1990年8月
1990年8月、日経平均株価が2万円を下回り、大蔵省は信用取引などの株価テコ入れ策を実施。
しかし、下げ止まることなく1992年8月に1万5000円を割り、政府は緊急株価対策と総合経済対策を行い、株価はいったん安定化しました。
ポンド危機|1997年9月15日
1979年、欧州では通貨間の変動幅を上下2.25%に収める欧州為替相場メカニズム(ERM)が誕生。参加国は変動幅を超えないように政策金利の調整や為替介入で為替レートを一定に維持していました。
1997年9月15日、ジョージ・ソロス率いるクォンタム・ファンドがその通貨制度の脆弱さを狙って、ロンドン市場で大量のポンド売りを実行。ポンドはERMが定めた下限を下回って急落しました。
イギリス中銀が利上げやポンド買い介入で防戦するも敗北し、イギリスはERMから脱退。ポンドは変動相場制に移行しました。
アジア通貨危機|1997年
1990年代後半、アジア新興国は自国通貨とドルの為替レートを固定化するドルペッグ制を採用し、為替リスクを抑えながら海外筋から資金を調達して高度成長を促進していました。
しかし、アメリカの金融引き締めでドル高が進んで、ファンダメンタルから乖離した自国通貨高はアジア経済を直撃。「アジア諸国の通貨レートを維持するのは不可能」と判断したヘッジファンドは、1997年5月14日タイの通貨バーツ売りの大量売りを決行しました。
同年7月2日、タイ政府は「ドルベックを放棄する」と発表して、変動性に移行。その後、通貨危機はマレーシア・インドネシア・韓国・フィリピン・香港へと飛び火し、アジア諸国の固定相場制は崩壊しました。
年表
1997年
5月 タイ・バーツ売りに始まるアジア通貨危機勃発
7月 バーツが暴落し、変動相場制へ移行&マレーシアが変動相場制へ移行し、リンギット急落
8月 タイ政府がIMFに支援要請
10月 IMF、世銀がインドネシアを支援
11月 韓国がIMFに支援要請
金融機関の破綻|1997年
1980年代後半、不動産や株の投機が加熱し空前のバブル相場に。株価と地価を中心に巨大な資産バブルを生み出し、日経平均株価は1989年12月29日に過去最高値となる3万8915円を記録しました。
しかし1991年に入ると、資産インフレの抑制を目的に日銀が段階的に行ってきた金融引き締めや、1990年3月に導入された不動産融資送料規制が効果を表し始め、バブル経済は1991年2月にピークを迎えて崩壊しました。
多額の不動産融資や株保有していた金融機関は巨額の不良債権処理により経営が悪化。1997年に日産生命保険が破綻、そして11月に三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券が立て続けに破綻しました。
年表
1992年 伊予銀行が東洋総合銀行を吸収
1995年 住専問題の処理策が閣議決定
1997年 三洋証券破綻 山一証券廃業 北海道拓殖銀行破綻
2003年 りそな銀行へ公的資金投入
2000年代
ITバブルの崩壊|2000年3月
アメリカでは1999年頃から、IT革命による生産性の向上が高成長と低インフレを両立させるという「ニューエコノミー」論が台頭し、IT企業への投資が過熱。
投資家の青田買いにより、利益を出していないベンチャー企業の株価が急騰したり、「インターネット業界に進出」と発表するだけで株価が上がるなど、インターネット・バブルが進行しました。
ネット関連の新興企業が集まる米ナスダック総合指数は1999年、年間上昇率86%に到達。日本でも国内のIT需要の高まりやアメリカ・アジア向け輸出の拡大により、緩やかに景気回復が始まりました。
当時のFRB長 グリーンスパン氏は1996年12月の公演で、この実体経済の裏付けのない株価上昇を「根拠なき熱狂(Irrational Exuberance)」と表現。
また、経済学者ロバート・シラー教授は著書「根拠なき熱狂」で、投資家心理の非合理性が株価を高水準に維持し、長期的上昇が約束されているという淡い期待感や思い込みがバブルを熟成していると警告しました。
そして、2000年3月にITバブルは崩壊、ナスダック指数は2002年10月に最高値から78%も暴落しました。
米国サブプライムローン問題&リーマン・ブラザーズ破綻
2003~2006年において、アメリカでは低金利や住宅価格の上昇を背景に、信用度の低い個人向けの住宅ローンがブームになりました。
またこの期間、世界的な過剰流動性・金余りを背景に金融市場のボラティリティが低下、投資家は高いリスクを求めたレバレッジ・トレードが活発に。
しかし、2006年頃から米国の住宅価格の伸び率が鈍化し、サブプライムローンの延滞率も急上昇。2007年に入ると、サブプライム関連資産の価格が大きく下落し、米格付け機関がサブプライム関連資産を大量に格下げしました。
その結果、短期金融市場は信用不安が高まり、金融機関は資金繰り困難に陥って、2007年8月 住宅関連や金融機関の多くの企業が破綻しました。
その後、落ち着きかけたローン問題は、2008年夏に金融危機が再燃。2008年9月15日には米大手証券会社 リーマン・ブラザーズが破綻。その後、米政府が金融機関への資金注入を行うことで、世界に飛び火したローンバブルの崩壊はようやく鎮火しました。
米議会は、この金融危機を2度と繰り返さないように、2010年7月 金融規制改革法(ドッド・フランク)を制定し、銀行の投機的行動を抑制する制度をつくりました。
年表
2007年8月 パリバ・ショック
2008年7月 ファニーメイなど政府支援機関が国有化
2008年9月 リーマン・ブラザーズ破綻
2008年10月 グリーンスパンFRB議長が議会で危機対応について証言
2010年7月 アメリカで金融規制改革法
ユーロ崩壊危機
2009年10月、ギリシャの新政権が旧政権下で隠蔽されていた財政赤字問題を暴露。翌2010年1月、欧州委員会がギリシャの財政赤字の実態を公言し、市場ではギリシャのデフォルトは避けられないという危機感が高まりました。
そして、この債務危機はスペインやイタリアなど南欧諸国に連鎖的に広がり、ユーロ共同体の崩壊も不安視されました。
しかし、2012年7月27日 ドラギECB総裁が「ユーロ圏の崩壊を防ぐためにあらゆる手段を尽くす」と述べ、南欧国債をECBが買い入れる準備があることを世界に向けて宣言。
この宣言により、市場の「デフォルト懸念」や「南欧諸国のユーロ離脱懸念」が払拭され、欧州の株式市場や不動産市場にも安堵感が広がりました。
ただ、現在も南欧諸国の債務危機の原因である「ユーロ圏で統一の財政政策が採用されていない」状態は改善されておらず、ユーロ危機再燃の可能性は依然としてあります。
年表
2009年10月 ギリシャの新政権が財政問題を暴露
2010年1月 欧州委員会がギリシャの統計不備を指摘
2010年4月 S&Pがギリシャを「投資不適格BB+」に格下げ
2010年5月 EU・IMF・ECBがギリシャへの1100億ユーロ支援
2011年4月 ポルトガルが支援要請
2012年6月 スペインが支援要請
2012年7月 ドラギECB総裁が南欧国債をECBが買い入れる姿勢を示唆
日本の主な景気サイクルと日経平均株価の関係
下の画像は、日本の主な景気と日経平均株価の対応関係を表しています。
神武景気:1954年11月~1957年6月|上昇率59.6%
「投資が投資を呼ぶ」と言われた設備投資の拡大によってもたらされた、戦後初の好景気。
「三種の神器」(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)などの耐久消費財が一般家庭に急速に普及し、個人消費も大きく伸びた時期でもありました。
しかし、物価の上昇や国際収支の悪化により1957年5月 金融政策の引き締めが行われ、その結果景気は衰退し「なべ底不況」に転換しました。
岩戸景気:1958年6月~1961年12月|上昇率145.1%
年率20~30%増の設備投資や金融緩和策で支えられた景気拡大により、実質経済成長率は2桁を記録しました。
この期間に、貿易・為替政策として「自由化計画大網」が、所得政策として「国民所得倍増計画」が決定。
しかし、神武景気と同じように、物価上昇と国際収支悪化に対処するための金融引き締めにより景気は後退していきました。
オリンピック景気:1962年10月~1964年10月|上昇率-3.7%
1964年の東京五輪開催により、新幹線や高速道路、競技場などの建設・公共投資が過熱した景気。
五輪終了後は、企業部門を中心に急速に景況感が悪化し、大型倒産が続発。株式相場は「証券恐慌」と呼ばれる低迷相場に陥りました。
いざなぎ景気:1965年10月~1970年7月|上昇率71.7%
1965年1月以降の金融緩和策と、赤字国債発行による積極的な財政政策により、いざなぎ景気が生まれました。
その結果、民間設備投資と個人消費が大きく伸び、特に「3C」(自動車・クーラー・カラーテレビ)が新・三種の神器としてブームとなりました。
この景気は57ヶ月続き、戦後最長を記録しました。
列島改造景気:1971年12月~1973年11月|上昇率64.4%
1972年に発足した田中内閣は、「日本列島改造論」のもと、積極的な財政政策を行って景気のテコ入れを図りました。
しかし、円の変動相場制への移行で多額の過剰流動性が発生し、インフレが加速。
日銀はインフレを抑制するために金融引き締めを行い、その結果 景気は1973年10月にピークをうち、日本経済は景気後退とインフレが同時に進行するスタグフレーションの状態に陥りました。
ハイテク景気:1983年2月~1985年6月|上昇率59.8%
レーガノミクスのもとアメリカでは、「強いドル」政策が敷かれて円安ドル高が進行しました。日本でも、ハイテク産業を中心に日本経済の輸出競争力が強まり、輸出主導型の好景気がもたらされました。
しかし、米国の経常収支の赤字が拡大し、日米間の貿易摩擦問題が発生。1985年9月の「プラザ合意」でドル高政策が修正され円は急騰、日本の輸出関連産業は深刻な打撃を受けました。
この「円高不況」により、日本経済は景気後退期に入りました。
バブル景気:1986年11月~1991年2月|上昇率44.1%
円高不況を脱した日本経済は、個人消費と設備投資を中心とする内需型主導の好景気に移行しました。
この景気は51ヶ月と長期間にも及び、株価や地価などの巨大な資産バブルを生みだし、日経平均株価は1989年12月29日に過去最高となる3万8915円を記録しました。
カンフル景気:1993年10月~1997年5月|上昇率1.9%
1993年末から、日本の景気は緩やかな回復をたどりました。1995年9月には、公定歩合が歴史的低水準の0.5%まで引き下げられ、翌年の実質GDP成長率は3.4%まで回復しました。
しかし、1997年のアジア通貨危機、1998年のロシア危機などの国際金融システムの不安定化や、国内の金融機関の相次ぐ破綻で金融システム不安が高まり、消費・投資意欲が低下しました。
日本の「失われた20年」は「10年×2」だった?|Newsweek
IT景気:1999年1月~2000年11月|上昇率1.0%
1999年1月、国内のIT需要の高まりや米国・アジア向けの輸出の拡大で、緩やかな景気回復が始まりました。
その後、2000年8月に日銀は1年半に及ぶゼロ金利政策を解除。しかし、ゼロ金利の解除はITバブルの崩壊と相まって株価を暴落させ、さらに2001年春の米国経済の失速が追い打ちとなり、IT景気は終焉を迎えました。
「不思議の国」からの脱却いまだ果たせず、日銀ゼロ金利導入から20年|Bloomberg
いざなみ景気:2002年2月~2007年10月|上場率58.1%
2002年2月から始まった景気は内需型で、消費面では液晶・プラズマテレビ・DVDプレーヤー・デジカメなどデジタル家電の販売が好調。また投資面では、アジアから日本への工場回帰が多く見られました。
政策面では、不良債権処理の加速を迫る「金融再生プログラム」や郵政の民営化、行財政システムの「三位一体改革」など、小泉構造改革が実施されました。
アベノミクス景気:2012年12月~2017年4月
アベノミクス景気は、第2次安倍政権発足とともにスタート。リーマンショックによる金融危機から、3つの経済政策、金融緩和・財政出勤・成長戦略により回復しました。
円安による輸出企業の好調や公共事業の拡大により、好景気は52ヶ月間続きました。
日経平均株価の歴代上昇率&下落率トップ10
最後に、日経平均株価の歴代上昇率・下落率を引き起こした出来事は紹介します。
参考図書:株がわかる!日経平均公式ガイドブック
日経平均の歴代上昇率トップ10
1位:2008年10月14日 14.15%
サブプライムローン問題でG7が金融機関への公的資金注入を決定
2位:1990年10月2日 13.24%
前日に大蔵省が株価テコ入れ策を発表。米・イラク間の湾岸危機打開に向けた強調も好感
3位:1949年12月15日 11.29%
金融危機の不安による株安で、日銀と金融界の懇談。生保・ぎんこ王が株購入策を実施
4位:2008年10月30日 9.96%
前日に米国が利下げ。日銀の利下げ観測や政府の追加経済対策への期待感も後押し。
5位:1987年10月21日 9.30%
ブラックマンデーによる暴落の翌日。日米欧の金融政策の強調確認が好感材料に。
6位:1997年11月17日 7.96%
北海道拓殖銀行の経営破綻で、金融システム維持への公的資金の導入観測が高まる。
7位:1994年1月31日 7.84%
政治改革関連法の成立や総合経済対策への期待感が好材料に。
8位:2008年10月29日 7.74%
日銀が利下げ検討のニュースが流れて円が急落、輸出関連株に買いが集まる
9位:1992年4月10日 7.55%
前日の米国利下げにより欧米株式相場が急上昇、正解同事株安の懸念が薄らぐ
10位:2001年3月21日 7.49%
にちぎんによる金融量的緩和に加え、日米首脳会談で森首相が不良債券に積極姿勢
日経平均の歴代下落率トップ10
1位:1987年10月20日 14.9%
ブラックマンデー勃発。米国発の株価暴落により世界の他市場も暴落。
2位:2008年10月16日 11.41%
前日にリーマン・ブラザーズ破綻による米国株の大幅安が日本市場にも飛び火。
3位:1953年3月5日 10.0%
スターリン暴落。朝鮮戦争集結観測で軍需株が売り出される。
4位:2008年10月10日 9.62%
米国発の金融危機が日本にも波及。大和生命保険が経営破綻。
5位:2008年10月24日 9.60%
世界液な景気減速が懸念される。ドル円やユーロ円で急速な円高が進行。
6位:2008年10月8日 9.38%
前日の米国株が大幅安になり、米金融危機が深刻化することへの懸念が高まる。
7位:1970年4月30日 8.69%
国際投資信託IOSが経営危機で保有株を大量売却との観測が広がる。
8位:1971年8月16日 7.68%
ニクソン・ショック。米大統領が発表した金とドルの交換停止、輸入課徴金導入。
9位:2000年4月17日 6.98%
ITバブル崩壊で米国株式相場が急落。G7会議での共同声明に株安対応策が盛り込まれず。
10位:1949年12月14日 6.97%
ドッジ・ラインによる財政金融引き締めが響く。上場企業による大量の増資も需給面で重荷に。
以上、「日経平均チャートで振り返る!現代金融史の出来事まとめ」という記事でした。